最近、なんだか焦っていました。
何かをもっと進めなきゃ。
もっと発信しなきゃ。
ちゃんと形にしなきゃ。
そんな気持ちが、いつもより少し強かった気がします。
でも振り返ってみると、
今年の夏はとても暑かったのに、
不思議と人に会いたい気持ちが強い時期でもありました。
普段より外へ出て、
人に会って、
話して、
いろいろなものを見たい。
そんなふうに、
自分の気持ちが外へ外へ向かっていたように思います。
そして今日、立秋。
暦の上では、ここから秋が始まります。
もちろん外はまだまだ真夏の暑さ。
蝉も鳴いているし、日差しも強い。
「秋」と言われても、
体感としてはまだずいぶん先のように感じます。
それでも季節は、
見えないところで少しずつ動いている。
東洋医学では、
夏は「陽」の気が盛んな季節で、
人の気持ちも外へ向かいやすいと考えられているそうです。
そして秋になると、
少しずつ陽から陰へ。
外へ広がっていたものを、
今度は内側へ収めていく季節へと移っていきます。
そう考えると、
この夏、人に会いたい、外へ出たいと思っていたことも、
なんだか季節の流れに沿っていたように感じます。
そして最近感じていた焦りも、
季節が切り替わる前の、
少し落ち着かない感じだったのかもしれません。
東洋医学で秋は、
何かをどんどん増やしていくというより、
収めたり、整えたりする季節とも考えられています。
立秋を迎えたからといって、
急に何かを変える必要はないけれどこれからは少しずつ、何を増やすか、ではなく、何を残すか。何を始めるか、ではなく、何をきちんと仕上げるか。
そんな方向へ気持ちを向けてもいいのかもしれません。
そして最近、
刺し子を見る自分の目も、
その時の気持ちによってずいぶん違うのだと感じます。
なんとなく見たい柄が変わったり、
その時の自分の気持ちに沿うようなものを求めたりする。
また、同じ柄を見ていても、
以前とはまったく違う感じ方をすることもあります。
それは刺し子もそうだし、
アートもきっと同じです。
何かを鑑賞するということは、
ただ「きれい」「好き」と受け取るだけではなくて、
自分が何を感じるのか。
何に惹かれるのか。
どこに心が動くのか。
その都度、
自分に問い返されることなのかもしれません。
そう考えると、
鑑賞するというのは、
自分の感受性や判断を試される行為でもあるのだと思います。
経営者がアートを買う、という話を聞くことがあります。
日々、正解のない中で判断を求められる人たちが、
アートを見ることに惹かれる心理って、
もしかしたらこういうことなのかもしれない。
誰かが正解を教えてくれるわけではないものを前にして、
自分はどう感じるのか。
自分は何を選ぶのか。
それを繰り返すことが、
自分自身の感覚を確かめることにつながる。
刺し子を見ている時にも、
私は案外、そんなことをしているのかもしれません。
季節が変わる時には、
外の景色だけではなく、
自分が何を見たいと思っているのか、
何に心を動かされているのかも、
少し変わっていく。
立秋は、
「今日から秋です」と、
ぱきっと季節が変わる日ではなくて、
外へ向かっていた夏の気を、
少しずつ自分の中へ戻していく合図なのかもしれません。
まだまだ暑い日は続きます。
焦って次へ進むより、
夏のあいだに出会ったものや、
感じたことを少しずつ自分の中に収めながら、
また一針ずつ、
次の季節へ向かっていこうと思います。




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