穀雨。
雨が増え、空気に湿りが混じりはじめる頃。

東洋医学では、この湿りは「湿」とされ、
消化や思考を司る「脾」に影響するといわれている。
春に高まっていた「肝」の気は、
外へ外へと動きながら、次の季節へと移ろうとしている。
そのあいだにある、わずかな揺らぎの時期。
なんとなく重い。
ぼんやりする。
進みたいのに、進まない。
それは、足りないのではなく、
巡りが滞っている状態。
湿が増えると、流れはゆるやかになり、
内側の状態が、そのまま外に現れやすくなる。
立春から続いてきた「肝」の昂りは、
この時期にひとつの区切りを迎える。
整えようとする力から、
整っているかが現れる段階へ。
穀雨は、もう整えるための時間ではなく、
そのままが出てしまう時間。
針を動かすとき、
気の巡りは、そのまま手に出る。
東洋医学では、巡りが滞ると、
重さや引っかかりとして現れる。
一目一目を通すとき、
滞っていないかだけを見ている。
速さではなく、流れ。
整っているときの針は、軽い。

ときどき、問われる。
「これで合っていますか」
「この刺し方で正解ですか」
形としての正しさは、たしかにある。
けれど私は、
正解そのものには、あまり意識を向けていない。
見ているのは、そこではなくて、
針が滞りなく通っているかどうか。
針目は、整えようとした通りにはならない。
そのときの流れが、そのまま残る。
揃っていなくても、通っている針。
整っているようで、どこか滞る針。
違いは、静かに現れる。
正しさではなく、
流れているかどうか。
いま見ているのは、そこだけ。
この時期の制作は、
整えるためのものではなく、
整っているかが現れるもの。

流れるような曲線の図案は流れているかどうかが顕著に現れると思う。
技術ではなく、
今の「気」が形になる。
整っていなければ、
整っていないまま現れる。
それでいいと思う。
湿りの中で、巡りは隠せない。
私も、完璧に整った状態で刺しているわけじゃないし、
そうゆう状態でしか刺していない刺し子は、逆につまらないだろうから。


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