”ていねいな暮らし”の正体

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あるXの投稿をきっかけに、「ていねい」という言葉について考えています。

そこには、ていねいとは手間の量ではなく、向こう側に想いを馳せられる感受性のことと書かれていました。

とても共感して、スクリーンショットとリンクをここに残します。

https://x.com/lkj_hgf_dsa_poi/status/2028607250496110821?s=53&ct=rw-line

最近、「ていねいな暮らし」という言葉をよく目にします。

整った台所。手作りの保存食。自然素材の道具。もちろん、それ自体は素敵なこと。

けれど同時に、どこか息苦しさを感じる人がいるのも分かります。

なんでだろう?

わたしは、こんなふうに考えました。

”ていねい”ができない私はだめという圧

できない自分はダメなんじゃないか、と感じてしまう。

本来やさしいはずの言葉が、優越を生むラベルになってしまっている。

これって、インスタの、いかにもていねいな暮らしをしていて、

そんな暮らしが「⚪︎⚪︎をもてば、⚪︎⚪︎すれば、できるよ」という誘導?煽り?動画が多すぎるのでは?

追求するほどかえってお金がかかる

お金と時間に余裕がある人だけができることのように見える。

本来、資源を大切にする思想のはずなのに、

無添加

オーガニック

上質な道具

余白のある家

みたいな、「コストのかかるライフスタイル」に変換されている気がする。

だから無添加推奨アカウントとかに、アンチがわいたりするのかな、と思う。アンチする人が思っている本当は、「無添加が嫌い」でも「オーガニックが嫌い」「意識高い人鼻につく」でもないんですよね。

「それを選べない自分が劣っているように扱われる構造」を無意識に感じて反発しているんだと思います。

刺し子はどう見られているんだろう?

刺し子はもともと

足りない時代の知恵

持たざる人の工夫

布を長く使うための営み

つまり、余裕のない人の側から生まれた文化。

なのに、今は、刺し子も「おしゃれな手仕事」に変換されると余裕の象徴に見えてしまっているかも。。

でも、決してそんなことはないですよね。

ていねいは、特権ではないし、姿勢であって、条件ではない。

刺し子への入り口が、ていねいな暮らしへの単なるあこがれであったとしても、

刺し子を続けるあなたはそこだけに惹かれて続けているのではないと思う。

私にとってのていねいも、刺し子を続けるあなたと同じ。

目の前のモノの“向こう側”を想像できること。

布の向こうには、糸を撚った人がいて、布を織った人がいて、

この模様を伝えてきた人たちがいる。さらにその先には、綿や麻を育てる土や水、自然の循環がある。すべて繋がっている。

それをほんの少しでも想像できるかどうか。

そこに、ていねいさが宿るのだと思うのです。

結びに

「ていねいな暮らし」は、 余裕のある人だけの特権ではないと思う。

完璧に整った生活でも、 無添加を徹底することでもない。

目の前のものの向こう側に、 ほんの少し想像を向けること。

刺し子も同じ。今は癒しの象徴として語られることも多いけれど、 本来は布を強くし、長く使うための生活の知恵でした。

だから私は、 刺し子を「ほっこりする手仕事」としてだけではなく、 素材や環境、つながりを思い出す営みとして大切にしたい。

癒しは、逃げるためのものではなく、 自分のリズムを取り戻すためのもの。

消費のスピードからいったん降りて、 一針ずつ、自分の感覚に戻る時間。

それが結果として、 布を強くし、暮らしを強くし、

自分自身を立て直していくのだと思います。

 

 

 ↑オーガニックコットンのさらし。大量生産、農薬によるコスト削減という、効率化の世界から意図的に外れた素材。理想は美しいし、正しいけど、現実、生活に余白がある人しか選べない。結果、ていねいな暮らしへの反発を生んじゃってる。難しい。けど、こうゆう素材と向き合ってみて少しでも長く使ってみる→刺し子をしてみる。でもいいし、どういう世界になれば地球にも人にもよりよい循環になれるのか考えるのでもいい。

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