私が初めて刺し子に心を奪われたのは、Instagramで見かけた一枚の写真でした。

十字花刺しという文様。
そのときの感想は、ただ一つ。
「かわいい!」
文様の意味も、構造も、何も知りませんでした。
ただ、糸で刺されたその文様に、どうしようもなく惹かれたのです。
それが、私と刺し子との出会いでした。
あれから何年も経ち、今では自分で作品を作り、人に教えるようになりました。
文様の構造を調べ、規則性を探り、どうすれば美しく見えるのかを考える。
最初はただ「かわいい!」だったものが、知れば知るほど奥深い世界になっていきました。
でも、最近になって、ふと思ったのです。
私は、なぜ作品を作っているのだろう。
人を感動させたいわけではない
作品を発表するとき、私は「これを見た人を感動させたい」とは、あまり考えていません。
もちろん、作品を気に入ってもらえたり、褒めてもらえたりするのは嬉しいことです。
でも、それが創作の出発点ではない気がします。
私はまず、自分自身が刺し子文様の美しさに感動しているのです。
線が繰り返されることで生まれる秩序。
単純な形が組み合わさって現れる、思いがけない複雑さ。
ほんの少しの違いで変わる、模様全体の表情。
そんなものを発見するたびに、面白くて仕方がない。
そして思うのです。
「ねえ、これ、すごくない?」
私が作品を作るのは、自分の作品で誰かを感動させたいからではなく、私が感動したこの美しさを、誰かにも見てもらいたいからなのかもしれません。
似ているようで、私にとってはずいぶん違うことなのです。
自分だけのデザインを作りたいわけではない
以前、ある方から「伝統文様から少し離れて、自分だけのデザインを作品にしてみては」とアドバイスをいただいたことがあります。
そのとき、私は強い違和感を覚えました。
もちろん、そのアドバイスには、作家としての独自性をもっと発揮してはどうか、という意図があったのだと思います。
でも、なぜ自分がそこまで違和感を覚えるのか、当時はうまく説明できませんでした。
今なら、少しわかる気がします。
私は、誰も見たことのない新しい模様を生み出したいわけではなかったのです。
そもそも私が心を奪われたのは、日本の伝統文様そのもの。
すでに存在している文様の中に、驚くほど美しい構造や規則性がある。
それを見つけることが面白くて、もっと深く知りたくなる。
そして、自分の手で表現してみたくなるのです。
もちろん、伝統文様をそのまま再現するだけではありません。
縮尺を変える。配置を考える。余白を作る。色を選ぶ。ときには規則性を崩してみる。
同じ文様でも、そうした選択によって、まったく違う表情が生まれます。
そこには、私自身の美意識や判断があります。
新しい形を生み出すことだけが、独創性なのだろうか。
すでにあるものの中に、まだ気づかれていない美しさを発見すること。
その美しさを、自分なりの視点で表現すること。
そこにも、作家としての独自性があるのではないかと思うのです。
あのときの違和感は、伝統文様から離れることが、私自身の創作の出発点から離れるように感じられたからなのかもしれません。
なぜ、糸で刺すのだろう
でも、ここで一つ疑問が生まれます。
文様の美しさを伝えたいだけなら、紙に描いてもいいし、写真や図案を見せてもいいはずです。
それなのに、私は布に糸で刺された文様に、特別な何かを感じます。
自分の作品だけではありません。
生徒さんが刺した作品を見たときにも、胸の奥が揺さぶられるような感覚があります。
誰が刺したのかを知らなくても、きっと同じように感じると思います。
千人針のように、一針一針に人の手が関わったものにも、どこか通じるものを感じます。
もちろん、千人針には戦時中の切実な祈りや歴史があります。私自身は、作品に特別な祈りを込めて刺しているわけではありません。
それでも、糸で刺されたものには、ただ印刷された模様とは違う、何かが宿っているように感じるのです。
糸の質感なのか。
人の手で作られたことによる、わずかな揺らぎなのか。
そこに費やされた時間なのか。
はっきりとはわかりません。
でも、理屈では説明できない何かが、確かに私の心を動かします。

日本人のDNAが震える?
私は以前から、日本の伝統文様には、日本人としてのDNAが震えるような美しさがあると感じていました。
もちろん、本当に遺伝子が反応するという意味ではありません。
もっと感覚的な、言葉にしにくいものです。
けれど、ここで不思議に思うことがあります。
刺し子に惹かれるのは、日本人だけではありません。
海外にも刺し子を愛する人がいて、日本の伝統工芸に強く魅了され、わざわざ日本に移住して職人の道を志す外国人もいます。
そんな人を見ると、思わず「前世は日本人だったんじゃないの?」なんて考えてしまいます。
それほどまでに、異なる文化のものに心を奪われるのは、なぜなのでしょう。
考えてみれば、日本人だって、海外の織物や刺繍、工芸品に強く惹かれることがあります。
生まれ育った文化も、言葉も、歴史も違う。
それでも、美しいと感じる。
だとしたら、人の心を動かす美しさには、文化や国籍を超える何かがあるのかもしれません。
私が初めて十字花刺しを見たときも、歴史や意味を知っていたわけではありません。
ただ「かわいい!」と思った。
美しさに心を奪われるのに、必ずしも知識や理由は必要ないのだと思います。
そして、心を奪われたからこそ、もっと知りたくなった。
私にとって刺し子は、そういう存在だったのです。
昔から好きだったこと
ここまで考えて、もう一つ思い出したことがあります。
私はもともと、本を読むのが好きでした。
そして、読んだ本の感想をブログに書くことも好きでした。
といっても、人気のあるブログだったわけではありません。
交流していたのは、ほんの1人か2人。
それでも、読んだ本について自分が感じたことを文章にするのが楽しかったのです。
誰かからコメントをもらえたら、もちろん嬉しい。
でも、それ以上に、自分の中に生まれた感情や考えを、言葉にする行為そのものが好きでした。
今思えば、それも刺し子と似ているのかもしれません。
本を読んで、面白いと思う。
その面白さを自分の言葉で表現したくなる。
刺し子文様を見て、美しいと思う。
その美しさを、自分の手で表現したくなる。
以前は、誰かが書いた本の中に発見した面白さを、文章にしていました。
今は、日本の伝統文様の中に発見した美しさを、糸と布で表現しています。
表現する手段は違っても、根っこにある気持ちは、案外同じなのかもしれません。
自分が見つけたものを、誰かにも
最近は作品を作るだけでなく、講座を開いたり、刺し子の図案を作るためのツールを開発したり、文章を書いたりしています。
一見、ばらばらの活動のように見えます。
でも、私の中では少しずつつながってきました。
講座では、私の描いた図案をそのまま再現してもらうことよりも、受講者自身が文様を観察し、考え、自分で判断できるようになることを大切にしています。
それはきっと、私が発見した面白さを、その人自身にも発見してほしいから。
作品を作ることも、教えることも、文章を書くことも。
私にとっては、どれも自分が見つけたものを表現し、誰かと分かち合うための方法なのだと思います。
あの日、Instagramで見かけた十字花刺し。
ただ「かわいい!」と思った、あの感覚。
今でも、糸で刺された文様を見ると、同じように心が動くことがあります。
なぜ、こんなにも惹かれるのか。
その理由は、まだうまく説明できません。
でも、わからないからこそ、もっと知りたい。
もっと見てみたい。
そして、自分が発見した美しさを、誰かにも見てもらいたい。
私はきっと、その繰り返しの中で、これからも作品を作っていくのだと思います。

- シンメトリーとアシンメトリー。刺し子をつくる私が惹かれるもの
文様の構造と、そこに少し変化を加える美しさについて。「伝統文様の中に美しさを発見し、自分なりに表現する」 - 歪んだ一針を、私は刺し直さない
人の手だからこそ生まれる、小さな不均一さを大切にするお話。「なぜ、糸で刺すのだろう」の章にある、手仕事の揺らぎへの思いを深めてくれます。 - 講座が終わっても、また刺したくなる
答えを教えるだけでなく、受講者が自分で発見するための「見方」を渡す講座のお話。「自分が見つけたものを、誰かにも」という思いが、実際の場面で伝わる記事です。


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