刺し子を額装する。
これは、今まであまり誰もしてこなかったことです。
昔の古い手芸本を見ていると、今の時代にはありえないような大物の作品と、そのレシピが載っています。
ふとん掛け
こたつ掛け
油単(ゆたんとよみ、タンスにかける大判布)
テーブルクロス
鏡台布
それらは、飾るためのものではなく、きちんと用途が決まっているものでした。
飾るものとして探すことができたものは、暖簾くらいでしょうか。
(※暖簾も、昔は外との温度調節や、結界を作るという魔除け的な意味合いから実用目的でかかげられていたらしいです)
刺し子は本来、布を補強するための針仕事から生まれたと言われています。
日々の暮らしの中で使われ、やがてそこに美しさが宿る。
いわゆる「用の美」の世界です。
風呂敷やふきんとして、暮らしの中で使われてこそ、刺し子の良さが生きる場面もたくさんあります。
使われてこその「美」。
私自身も、そのような考えにとても共感しています。

そんな私が、数年前から刺し子を額装してみるという挑戦をしています。
きっかけは、絵を描いているアーティストの知り合いの方からこんなことを言われたことでした。
「刺し子は芸術としても素晴らしいのに、あなたは額装をしようと思ったことはないのですか?」
刺し子の世界にだけ生きてきた私にとって、それはとても衝撃的な言葉でした。
アートはアート。
刺し子は刺し子。
それぞれ、まったく別の世界のものだと当たり前のように思っていたからです。
今まで足を運ぶことのなかった額縁屋さんへ行き、
プロのアーティスト作品の額装を何枚も仕上げてきた職人さんと、
あれやこれやお話をしながら一つの額装作品を作り上げていく工程は、とても楽しいものでした。
完成した作品を見たとき、刺し子がなんだか少し格上げされたような、こそばゆい感覚もありました。
一針一針、とても長い時間をかけて布の上に線が重なっていくのと、絵筆でそれを表現していくもの。針と絵筆。
いったい何が違うのか? もっというと、刺繍の額装があって刺し子はないのはなぜか?
急に、疑問がわいてきました。
使われるもの。
使われてこそ価値があるもの。
そんな考えに、私はどこか縛られていたのかもしれません。
それとも、刺し子に関わる多くの日本人が同じ感覚を持っているのでしょうか。
令和となった今、刺し子をアートとして表現してみて何か悪いことがあるのでしょうか。
私は額装をはじめてからずっと考えてきましたが、
その「悪いこと」がまだ見つかりません。
むしろ、アートと横並びに語られる刺し子の未来が楽しみになってきました。
飾られる刺し子と、使われる刺し子
もちろん、用の美という刺し子らしい取り組みも忘れてはいません。
この34センチ角の額装に使っているのは刺し子ふきんです。

飾るという役目を終えたら、額装から外して普通にふきんとして使うこともできます。

この50センチサイズの風呂敷も、額装を外せば風呂敷として使えます。

↑これは、タネあかしをしてしまうと、まだ額装はしていません^^AIに額装イメージを出してもらったものです。

暮らしの道具としての刺し子。
そして、時間の蓄積を見つめる作品としての刺し子。
どちらが正しいというわけではなく、私はその両方の可能性を探してみたいと思っています。
現在、私が制作している額装作品は、刺し子ふきんや風呂敷など、
本来は暮らしの中で使われる布をもとに制作しています。
(冒頭のファブリックボードを立体額装した作品は少し残念ですが何かの用途には使えません 汗
それだけは、「純粋な飾る刺し子作品」ですね。ボードを剥がしてもらうとウエスにはなります 笑)
長い時間をかけて重ねた針目が、暮らしの道具としても、壁に飾る作品としても存在できる。
そんな刺し子の新しいあり方を、これからも少しずつ形にしていきたいと思っています。
もしこの文章を読んで、
「自分の刺し子も少しお化粧してみたい」
そんなふうに思われた方がいらっしゃったら、
ぜひ一度、額縁屋さんに足を運んでみてください。
刺し子が額に入ると、いつもの布が少し違った表情を見せてくれるかもしれません。
刺し子という日本の針仕事が、誰かの暮らしの中で静かに時間を重ねていきますように。
次回は、
何かの役に立つものではないし、そこに飾るだけのアート作品を、なぜ人は求めるのかなというところを考えてみようと思います。
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私は鹿児島市在住なので、高木画荘さんにお世話になっています。↓


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